ブログをご覧の皆様こんにちわ。Lamborghini Aoyama Kで御座います。
暑かったり、涼しかったりと日中の寒暖の差が激しい今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか?
今回は、前回予告させて頂きました通り、Sig.Ferruccio Lamborghiniのライフストーリーをご紹介する第1弾です。
ご紹介させて頂きますのは、ランボルギーニの生みの親・Ferruccioを、誰よりも間近で見つめ続けた息子Toninoが記した原著、
「Onora il Padre e la Madre」 からご紹介させて頂きます。
イタリア北部エミリア州Cento、Ferruccioが生まれたのは、その中のRenazzoという小さな町。教会の周りに家々が点在し、辺りには月面のような広大な畑が続き、中を通っているのは埃っぽい田舎道だけだった…
1916年4月28日 Ferruccioは、この地に生まれた。
Ferruccioの愛する故郷のCentoは、幸い戦場とはならず、略奪や空襲の惨禍からも逃れることが出来た。
戦後、職人といわれる人々が新しい工業社会に飲み込まれて行く悲しさと、敗戦がもたらす独特の雰囲気が混じり合っていた。
しかし父はこんなときこそ千載一遇のチャンスが有ると感じ、逆に自由なムードを噛みしめていた。
はじめFerruccioは、自分にとって未知の業種に参入しようと試みた。
Bassa地方(ポー川流域の低地)の婦人用に痩身美容マシーンを作ろうかと考えたんだ。でも戦争の耐乏生活で、みんなタダでさえ痩せちまってた。
Ferrucio談
「農民のトラクター」がない。
イタリアでも戦後になると他国ですでに定着していた農業の機械化・近代化がやっと本格化の兆しをみせた。
農村部で農機の大きな需要が起こり、それは年々拡大していった。農機は無限の可能性を秘めて飛躍しようとしていたのだ。
しかし従来の大きな機械メーカーは、重い経営コストがかかる割にそれほど売れず、採算性が悪いトラクターに本腰を入れていなかった。
だからトラクター業界への参入は既存企業とそれほど競合することなく、生産方式を革新できる才能と技術さえあれば可能なはずだった。
Ferruccioは、それらを全て悟っていた・・・
第2弾は、牡牛座の男、夢開くをお届け致します。 お楽しみに!
Ci Vediamo. Ciao!